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 三代将軍家光は狩りが大好きで、生涯に千回を越えるのではといわれている。公文書によると、大久保に十二回、周辺の中野、高田を含めると百二十回以上出向いている。ある時、大久保天神に立ち寄り、社殿が荒廃しているのを見て金の棗(なつめ)(なつめの実の形をした点茶用茶入れ)を与えてこれで再建するよう命じた。以来、棗天神と呼ばれるようになったという。
 また、社殿が崖上の台地に西向きに建っているので西向天神とも呼ばれる。
 当社の由来は、鎌倉時代の初め、京都栂尾(とがのう)の明慧(みょうえ)上人が東国に寺を創建しようと菅原道真(すがわらみちざね)自作の像を持参、当所の郷民と図って祠(ほこら)を建て、鎮守(ちんじゅ)としたという。
 同じ境内に大聖院(だいしょういん)があり、天神社を管理する別当守(べっとう)であった。戦国時代末期、戦火に逢い、牛込八郎重次が再建した。この重次は牛込氏の一族と思われるが、今のところ系図には見当らない。ここの紅皿(べにざら)の碑(ひ)(新宿区文化財)は、太田道潅(おおたどうかん)ゆかりの山吹の乙女(おとめ)紅皿の塚と伝えられている。応仁(おうにん)(一四六七〜九年)の頃、京都から下った武士が娘を連れて高田村に住み、やがて近くに住む寡婦(かふ)と結ばれて娘をもうけた。姉は美人で和歌を好み、妹は不器量 。人々は姉を紅皿、妹を欠皿(かけざら)とあだ名した。これを聞いた母は継子(ままこ)の姉につらく当たり、実子の妹を溺愛(できあい)した。やがて紅皿は山吹の歌から道潅の知るところとなり、江戸城に招かれて歌の相手、いつしか側室となった。文明十八年(一四八六)道潅が没すると尼になり、このあたりに庵(いおり)を結んだという。
 当社を鎮守とした東大久保村は前回ふれた鉄砲玉薬同心の給地でもあった。
 下掲の絵は天保年間(一八三〇〜)に描かれたものであるが、堂舎の配置や境内の景観は今も変わりなく、いくつかの石造物も残されている。ただし、正面 石段下は天神小学校や新宿文化センターをはじめ多くのビルが立ち並んでいるが、曲がりくねった小川(現在暗渠(あんきょ)として道路になっている)や野道は現在も生きている。この絵を片手に散策してみるのも一興ではないでしょうか。

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西向天神の周辺(『江戸名所図会』天保年間(1830〜)
□は現在

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