社団法人新宿法人会
サイト内検索 powered by Google
サイト内 Web
おまけの便利LINK マルチ辞書  |  地図  |  乗換案内
広報誌
広報誌「しんじゅく」
新宿法人会とは
ごあいさつ
活動内容
入会方法
情報公開
支部一覧
アクセス
会員紹介
部会ご紹介
青年部会
女性部会
源泉部会
会員の皆様へ
研修会・講習会
事業予定
コラム
新宿歴史よもやま話
世界遺産紀行
リンク
お役立ちサイト
全国の法人会
   
 
↑クリックすると拡大します
 平成七年、新宿区西早稲田三丁目の戸塚警察署改築にともない発掘調査が行われた。  調査の結果、旧石器時代の蒸し焼き料理に使われた拳大の幾つかの石、縄文(じょうもん)時代の炉、弥生(やよい)時代の複数の住居跡や周囲を深い溝で囲った一九×一四メートルと大きな墓域(方形周溝墓)、副葬品と思われるコバルトブルーのガラス玉 三個も見つかっている。すなわち、古代人の集落が存在し、中には有力者もいたものと想像される。
 江戸時代にはこのあたりは源兵衛村と呼ばれ、農村であった。ところが発掘すると大きな建物の土台、水琴窟(すいきんくつ)の跡、整備された下水溝が発見された。由緒ある邸宅の跡である可能性大である。戦前の地図では「松平邸」とあり、遡って明治二年の村絵図をみると「松平確堂(かくどう)様御抱屋敷」とある。
 松平家は家康の次男秀康(ひでやす)を藩祖とする名家であるが、幾多の非運に見舞われて津山五万石であった。松平確堂は津山藩十一代藩主斉民(なりたみ)、十一代将軍家斉(いえなり)の十六男に生まれ、松平家への養子入りに際して十万石となっている。斉民は隠居して確堂と号し、喜久井町の下屋敷(高田御殿)に孫にあたる姫たちと住んでいた。安政六年(一八五九)二月二十二日、青山から出火した火事で下屋敷が類焼し、高田馬場北側の茶屋通 りの甲州屋に避難した。確堂はこれが縁で源兵衛村・高田村の松平遠江守(とうとうみのかみ)(尼崎四万石)所有の屋敷を譲り受けて抱屋敷とし、建物修復願いを幕府に提出して十月初めから建築と庭園の整備を始めた。下屋敷の仮住居から転居したのが十一月二十七日。僅か二ケ月足らずの突貫工事で取り敢えず住めるようにし、その後、徐々に手を加えて立派な屋敷を作りあげている。当時の様子を『広瀬六左衛門雑記』は、「近くの裏屋に住む大工鉄右衛門は度々の普請で三万両を得て金持になり、植木屋仁右衛門も作庭、老侯のお気に入りになり、江戸城の用達になった。」と記している。また、確堂が編んだ『芸海余波(げんかいよは)』によれば、屋敷は考槃荘(こうばんそう)と名付けられ、著名な文人を酒宴に招き、席上、庭園の美を詠ませている。彼自身も優れた文人であった。また、幕末の政局に重きをなし、明治元年には徳川将軍家の後見人となって実家である徳川家のために尽力している。
 抱屋敷は現在の明治通りを含み、北側は神田川に接する広大な敷地であった。明治以降も松平家が所有していたが、戦後昭和二十三年、警視庁に売却され、のちに戸塚警察署となったのである。 前号の四段三行目の「六百万石の旗本」は「六百石の旗本」にお詫びして訂正します。 松平家抱屋敷の北側からの俯瞰図(『芸海余波』早大図書館蔵より)
 
Copyright (c) 公益社団法人新宿法人会
TOP   プライバシーポリシー   お問い合わせ