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   最近、英国で日本の流鏑馬が興行され、華麗な演技が大変な好評を博したことが報道された。射手を務めたのは弓馬術「小笠原流」に属する人々であった。
 流鏑馬とは、定められた装束をした射手が走る馬の上から的を射る騎射の一種で、正方形の的を三箇所に並べ、走りながら連続してこれを射る競技であるが、儀式としての性格が大きい。
 江戸時代中期、八代将軍吉宗は武芸振興の一環として古来の流鏑馬を改良、整備して新たな形にすることを小笠原平兵衛に命じた。享保十三年(一七二八)三月、長男家重(のちの九代将軍)の疱瘡(ほうそう)が全快したのを祝って最初の流鏑馬が高田馬場で催された。
 二回目は元文三年(一七三八)竹千代(のちの十代将軍)誕生の祝い。まず、将軍の名代、射手十六人たちは穴八幡宮に参拝、八幡坂を登って馬場に到り、規式に従って騎射が行われた。矢来を巡らした周囲には見物の群集があふれ、町奉行所の同心たちが警備に当たっている。この時の様子は幕府の抱え絵師たちによって描かれ、今に伝えられる。
 戦後間もない頃、早稲田小学校の近くの住宅地に土盛の上に立派な墓があったが、土地分譲の波にのって改葬移転するため発掘された。掘るとまず石枠が現れ、中に木炭が詰められ、つづいて厚さ三センチほどの檜板で造られた一辺一・五メートル位 の箱、そして内面に銅板が張られ、内部に大きな瓶があり、中にミイラ化した座位 の遺体とともに二振の刀が添えられていた。最近になって法名からこの人物が射手の一人、土岐左兵衛佐(ときさひょうえのすけ)(六百万石の旗本)であることが判明した。彼はのちに区内二十騎町の先手弓組の頭になっている。また、兄や子も流鏑馬の射手を務め、一族こぞって騎射の名手であった。墓は現在弁天町の宗参寺に移されている。
 十回目の天保十一年(一八四〇)流鏑馬の時に手伝いに駆り出された農民の記録が中野の堀江家に伝えられている。これによると、準備のための打合せの会合費(下級役人の呑み代や宿泊費も)から馬場の設営の費用、人足費、上級役人の休息屋敷の提供まで村々の負担であり、その範囲は牛込西部から三鷹にいたるおよそ百の町村に及んでいる(この範囲を中野筋鷹場(すじたかば)組合といった)。この他に記録は残されていないが、農民の負担は毎度のことであったものと思われる。
 高田馬場での流鏑馬は江戸時代を通して十一回行われ、いずれも小笠原家が師匠番を勤めていた。


 
矢をつがえる射手  
矢を放った射手
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