寛永十三年(一六三六)三月五日、三代将軍家光の命により高田(現在の新宿区西早稲田三丁目)に馬場が完成した。東西百八十間(三二四メートル)、南北二十六間余(五十メートル)。
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高田馬場跡
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この高田馬場を一躍有名にしたのは「堀部安兵衛の仇討(あだうち)」である。
元禄七年(一六九四)二月十一日、伊予西条藩松平家に仕える菅野六郎左衛門と同藩の同僚村上庄左衛門とは些細なことから高田馬場で決闘をすることになった。中山安兵衛は世話になった六郎左衛門に助太刀をし、村上方を倒した。これが縁で安兵衛は堀部家の養子に入り、堀部安兵衛武庸(たけつね)となって赤穂(あこう)藩浅野家に仕え、のちに、主君浅野長矩(ながのり)の仇討をした赤穂四十七義士の一人として有名になり、高田馬場の助太刀も「高田馬場の仇討」といわれ、いろいろ面
白おかしく潤色されて後世に伝えられている。
ここで、安兵衛が「何処から高田馬場に駆けつけたのか」について考えてみよう。
まず、安兵衛は事件後、堀部家の養子に入るについて『父子契約の 末(てんまつ)』として事情を書留めるとともに「二月十一日高田馬場出合喧嘩之事」を自ら認めた手記が熊本の細川家に伝えられている。これによると、
元禄元年(一六八八)越後新発田(しばた)から江戸に出、牛込元天竜寺竹町(新宿区納戸町)に住んだ。やがて前記の菅野六郎左衛門(区内若葉に住む)を名目上の叔父として親類書を作り、納戸町に屋敷をもつ御徒頭(かちがしら)の稲生(いのう)七郎右衛門の家来速見重右衛門の口入れで稲生家の中小姓になり、元禄七年に高田馬場の助太刀に及んだ、というのである。
これを根拠付ける、元禄四年の安兵衛自筆の従弟宛手紙が現存し、これに「去春(元禄三年)より唯今に牢人(ろうにん)にて、住所は牛込元天龍寺竹町と申す所に罷り有り候」と書かれている。また、幕府が作成した元禄期の地図に稲生七郎右衛門屋敷が現在の区立牛込三中の道を隔てた東側角地に記されている。七郎右衛門は千五百石の旗本で延宝八年(一六八〇)から元禄十年まで御徒頭を勤めており、時期的にもうまく符合する。
稲生屋敷から高田馬場まで、二・二キロメートルと意外に近い。安兵衛が高田馬場に駆けつけるのに不可能な距離ではない。
以上、納戸町の旗本稲生家から高田馬場に赴いた、と考えてよいのではなかろうか。
また、高田馬場の決闘に、村上は弟二人、浪人村上三郎右衛門と中津川祐範に助太刀を頼み五人、菅野は安兵衛、若党角田左次兵衛、草履取(ぞうりとり)七助の四人。安兵衛の手記は、決闘の場所を馬場の西部としている。
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