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 三代将軍家光は春日局(かすがのつぼね)の柏木村にある大久保亭を訪れ、尾張の徳川義直と水戸の頼房を招いた。時は寛永十三年(一六三六)十月九日であった。
 
幕末の柏木村
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 この記事は幕府の公式日記に書かれているので疑う余地のない事実である。そこで、柏木村と春日局との関わりを探ってみることにしよう。
 寛永十一年十二月十二日、家光は乳母であった春日局に豊嶋郡柏木村百石を与えた。名目は春日局が亡くなった後、菩提を弔うための麟祥院(湯島)への寄進である。 
 ところで、柏木村とは、米百石の穫れる柏木村全体を意味し、家光の晩年に作成された『武蔵田園簿』には、柏木村の収穫高について、

 一 百石 天沢寺領 柏木村  内 六十五石 田方   三十五石 畑方

とある。なお、天沢寺(天沢山麟祥院)は麟祥院のことである。
 その後、宝永三年(一七〇六)に幕府による検地(正確な測量による収穫高の決定)が行なわれ、

 柏木村  麟祥院領 三一三石

と七十年間に三倍余に増えている。これは開墾や生産性の向上もさることながら、拝領当初、麟祥院に有利なように目安としての収穫高(抓(つま)み高)を実収より少なめの百石としたのではなかろうか。
 やがて、村内の青梅街道沿いには町並みができ、治安維持のため町奉行支配となり、成子町・淀橋町と呼ばれるようになった。すなわち、現在の青梅街道の両側、西口の新都心歩道橋あたりから淀橋までのおよそ一キロメートルは麟祥院の町屋で、年貢(地代)を同寺に納めていた。
 春日局の大久保亭があったのは麟祥院領抱え屋敷といわれ、現在の小滝橋通 り西側のNTT新宿営業所から北にかけて一万二千坪余の所である。ここは明治になると字元春日となり、昭和七年の淀橋区成立時に柏木三丁目に、昭和四十六年の新住居表示で北新宿一丁目に含まれるようになった。
 北新宿三丁目の右衛門(えもん)桜で有名であった円照寺は火災にあったとき、春日局によって再建されたといわれ、局の縁故である尾張二代目藩主光友の奥方千代姫(将軍家光の長女)から葵の紋付食籠(じきろう)・茶碗・香炉が寄進されている。
 また、東京医科大学病院の構内には「春日局遺愛の松」と呼ばれる古木が大正八年まであったという。

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