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 幕末、大久保鉄砲百人組がどのような行動をとっていたのかあまり知られていない。最近、与力三人、同心二人の由緒書(先祖の経歴と本人の略歴を記したもの)が見つかったので、彼らが激動の時代をどう生きたか様子を探ってみる。
 八代将軍吉宗の時代には小金原鹿狩(ししが)りや日光社参に加わり、名誉なことを喜びながら、一方、物見遊山的な楽しみを謳歌している。天明(一七八〇年代)に入ると武家や町人を含めた狂歌が流行し、当組同心榊原丈右衛門(現在の新大久保駅あたりの屋敷)などは大田南畝(なんぼ)(蜀山人)と交わり、大久保周辺の名所を案内し、作品のいくつかが狂歌集に載せられている。しかし、次第に鉄砲撰打見分(射撃競技)が増え、成績優秀者には褒美として与力は銀二枚、同心は一枚を拝領、江戸城内での武術見分に槍術で褒美白銀七枚を頂戴するものまで出ている。
 それにしても、まだまだ長閑(のどか)さが続き、江戸の人々の郊外への物見遊山の流行にのって当組の「大久保つつじ」が大流行することになった。
 嘉永六年(一八五三)ペリーの黒船来航あたりから世間は騒然とし始める。徳川幕府崩壊の十五年前である。当組も幕府の軍政改革によって調練が増え、江戸城吹上、築地講武所、越中島、小石川講武所へとたびたび出かけている。
 文久二年(一八六二)十二月、二百五十年余続いた百人組は廃止され、新たに講武所奉行に属することになった。所属は変わっても屋敷は元のままである。ただちに一部の者は品川のお台場を守る勤番になり、殆どの者は翌三年二月、将軍家茂(いえもち)に従って京都に赴き、仮住まいをしながら将軍を警護、四月大坂城に移り日々調練に励んでいる。五月京都へ、六月再び大坂、七月江戸に戻る。
 京都では将軍や幕閣の動きに夜昼の別なく常に付き添って警備にあたり大変な日々であった。もちろん、妻子は江戸に残しての単身赴任である。八月になるとかつての同心は大砲組、与力は騎兵組に配属替えになった。大砲組はお台場勤務になったが、翌元治元年(一八六四)八月には上野(こうずけ)国の天狗党討伐に加わり各地で戦い、十一月の和田峠の戦闘を終えてやっと帰宅。再びお台場勤務に戻るが、年が明けると老中に従って上京、間もなく江戸に帰着。四月に第二次長州征伐のため駒場野での進発勢揃いが行なわれ、五月将軍に従って大坂に出発。大坂では幕府と長州との交渉が長引き、元同心の松本巽(たつみ)は過労のため病気になり、単身江戸に戻っている。翌慶応二年(一八六六)四月、広島周辺で幕府軍は長州と戦って大敗を喫するが、これに参戦したのかは不明である。
 一方、騎兵組になった元与力のうち楠十郎兵衛は天狗党討伐に加わり、将軍の大坂進発に供奉。山丈林之助、窪田八郎次は慶応元年十二月に大番組の与力に移され、所属がばらばらになっている。  新宿区内にあった諸組の中、四名が幕末の広島周辺や鳥羽伏見の戦いで戦死した記録が見つかっている。まだまだ多くの死者が出たものと思われるが分かっていない。引用した当組与力同心百二十五名の内わずか五名分に過ぎず、なおかつ慶応二年二月に書かれているので、それについては不明である。

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