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 徳川家康は天正十八年(一五九〇)江戸に入ると、すぐに北条氏の残党が西部から侵攻することを予想して内藤清成に四谷口、青山忠成に青山口の防備に当たらせた。十年後、関が原の戦に勝って天下の覇権を握ることになったが、有力大名たちの反撃も予想されるため特に江戸西部の防備に力を注いでいる。
 その一つが大久保鉄砲百人組の創設である。慶長七年(一六〇二)内藤清成は与力二十五騎と同心百人を預けられ、組屋敷(集団住宅地)を内藤宿及び大久保に設けた。当時、未だ未開地であったので一人当たり千五百坪から二千坪という広い土地が与えられた。最初、内藤宿の与力屋敷は内藤家の屋敷内にあったが、頭が代わって次第に内藤家の手を離れ、甲州街道(新宿通り)の北側、現在の新宿一丁目にまとめられている。やがて元禄十一年(一六九八)内藤新宿が新設されると甲州街道に面して四千坪余が召し上げられ、代地が与力九人分として角筈村(新宿六丁目)に与えられた。大久保の同心百人の組屋敷はそのまま幕末まで続いている。すなわち、大久保鉄砲百人組の組屋敷は三ヶ所あったことになるが、角筈村の組屋敷は百姓たちに貸していたようである。
 ところで、鉄砲百人組はどのような仕事についていたのであろうか。鉄砲の射撃訓練を主とするはずであるが、どうも余り力を入れていなかったようで、新参のうちは師匠番(与力の鉄砲指導役)から手ほどきを受けるが、あとは月数回の稽古を行なう程度で公式の頭立会いの見分(査閲)は年に一回のみであった。通常の勤務は江戸城内の三之門の警備を四組の百人組(大久保組・青山組・根来組・甲賀組)が交代でしている。したがって月に四回程度(一昼夜勤務)、古参になると十日に一回という楽な勤めであった。このとき詰めた番所が百人番所として皇居東御苑に今も残されている。この他、将軍の寛永寺、増上寺への参詣の警備などがある。このように勤務は楽であるが、俸給は与力が現米八十石(玄米八十石)、同心が三十俵二人扶持(扶持は一日玄米五合ずつ)で現在の年俸六,七十万円に相当し、いかに物価が安かったとはいえ生活が大変で、内職をせざるを得なかったのであろう。これが大久保のつつじ栽培である。
 現在、大久保百人組与力同心の先祖からの経歴を書いた由緒書五通が残されている。次回はこれを基に述べ、大久保のつつじについても触れることにしたい。

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