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新宿駅南口前の甲州街道に接した南側は、昨年のNHK大河ドラマ『元禄燎燗』に描かれた四谷犬小屋のあった場所である。
元禄八年(一六九五)四月、五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」によって、角筈の柳沢吉保屋敷が召上げられ、そこに「四谷犬小屋」の建設が始まった。普請は加賀大聖寺藩前田利直に命じられ、毎日五、六千人の人夫が動員され、二万坪余の敷地には長さ四十間の小屋が幾つも作られた。主として江戸中の牝犬を収容、子犬を生ませないためである。
なお、犬小屋は「御用地」とか「御用屋敷」と呼ばれ、工事関係者は予め犬小屋であることを内密にするよう誓紙の提出が命じられている。元禄十年十一月、犬はかねて建設の進められていた中野犬小屋に移された。わずか二年余の四谷小屋であったが、大聖寺藩の出費は七千両であったという。また、犬一疋に一日当たり米二合、銀二分を費やし、負担は近郊農村や江戸の町々に課せられている。しかも、犬によって罰せられた者は死罪を含めて数十万人に及んだと言われている。
新宿大ガード付近、西武新宿駅方向にかけて「調練場」があった。天保十四年(一八四三)六月、幕府は近海に出没する外国船に危機感を抱き、泥縄式に「大筒丁場」を角筈村に設け、武家であれば誰でも大筒の練習を許した。大筒といっても玉
は三百目までである。やがて「角筈調練場」と改称され、ドカン、ドカンと練習する武家で賑わい、たびたび修理や湯小屋増設の願いが出されている。掃除や湯茶の用意は近隣農民の夫役(ぶえき)である。敷地は一万七千坪、旗本五島修理亮と城半左衛門の屋敷を召上げた場所であった。
新宿通りは駅のところで線路沿いに右折しているが、それを直進する西口への連絡地下道の所がかつての青梅街道であった。明治十八年三月、日本鉄道(山手線)が赤羽〜品川間に開通
すると、青梅街道に踏切りが出来、列車本数の増加に伴い閉じられる時間が長くなって、通
行人や馬車は激しい渋滞に悩まされた。明治四十一年、やっと跨線橋が設けられたが、馬車の待ち時間は依然として減らないままであった。
大正十年、踏切りの西百メートルに大ガードが作られて渋滞はようやく解決された。換言すれば、直線であった青梅街道は鉄道が敷設されたために、西に迂回するようになり、跡に連絡地下道が設けられたのである。回りくどく青梅街道の変遷を述べたが、実は前項の「調練場」が青梅街道に接した西側、すなわち、連絡地下道の所から西側にあったことを言いたかったのである。
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