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 新宿駅西口広場から工学院大学辺りにかけて、高須藩松平家の「角筈屋敷」一万坪があった。弘化四年(一八四七)十代藩主義建(よしたつ)は隠居してここに庭園を築造し「魁翠園(かいすいえん)」またの名を「聚玉 園」と名づけた。当時書かれた漢詩や和歌などの記録によると、広い園内には十二景が設けられ、春は梅、柳、若草の丘に登って霞む彼方に富士を眺め、夕暮れの鐘の音。初夏には竹林の筍を掘り、玉川の流れを引き入れた池で蛍狩り。秋は池を巡って観月、池中に浮かぶ島の茶室での点茶、紅葉の楓林を愛でながらの献酬。冬には庭内での鷹狩りが行なわれた。この他、百間余の馬場があって義建は乗馬を得意としていたようである。
 この情景がおよそ百五十年以前の西口周辺であるとは全く驚きである。
 ところで、高須藩松平家は尾張徳川家第二代藩主光友(みつとも)の次男義行(よしゆき)(母は三代将軍家光の長女)を藩祖とし、三万石の大名であるが、本家の尾張家に世継ぎのない時には代わって継ぐことを建前として成立した家である。前述の十代藩主義建の次男慶勝(よしかつ)は尾張家に入って十四代藩主となり、将軍世子問題で井伊大老の忌諱(きい)に触れて隠居謹慎、戸山屋敷に幽閉の身となった。桜田門外の変以後は再び尾張藩の実権を掌中にしている。
 慶勝の隠居で尾張藩十五代藩主になったのが、弟茂徳(もちなが)(義建の五男)である。茂徳は文久三年(一八六三)に自ら身を引いて兄慶勝の子義宣(よしのぶ)に藩主の座を譲るが、四年後の慶応三年(一八六七)には一橋家に移っている。六歳年下である慶喜の養子としてであった。
 義建の六男容保(かたもり)は会津藩主、京都守護職、戊辰(ぼしん)戦争で最後まで官軍に抵抗して会津城に立てこもり、明治二十六年亡くなると正受院(新宿二丁目)に葬られた。現在は改葬されて墓はない。七男定敬(さだあき)は兄容保とともに京都所司代として活躍、戊辰戦争を幕府方として戦った桑名藩主。いずれも幕末史に名をとどめた兄弟である。当家の上屋敷は現在の新宿区荒木町であった。
 明治になると角筈屋敷跡の西部には女子独立学校が建てられ、後に精華学園となり、また、その南に杉浦重剛の日本中学校が麹町から移転したきた。東側駅寄り、かつての魁翠園は岩倉公爵の所有となり、見事な庭園は華竜園と名づけられ、大正天皇が東宮の頃にしばしば訪ねられたという隣雲軒もあった。その後、新宿駅拡張に伴って廃園になり、明治三十八年には専売局の煙草工場として買収され、四十三年に工場が竣工、閑散としていた新宿駅も大勢の男女工員の朝夕の通 勤で活気を帯び、貨物の取扱量も急増したという。

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